上津山宝珠院縁起




宝株院は、山号を上津山と号し、伊賀の南東、三重県伊賀市北山(旧青山町)にある真言宗豊山派の寺院である。もとは、真言宗高野派の寺院で、真言宗豊山派になるまでは、高野山金剛峰寺西宝院の末寺であった。また山号の「上津山」とは、当地が昔より北山を含め、滝、妙楽地、勝地、伊勢地、下川原の六区を持って上津という地名であったことや、往古にこの地が「上津阿保村(かみつあおむら)」「上津郷(こうづきょう)」等と呼ばれていたことより、その「上津」を取って「上津山」と称していると考えられる。この山号より、当院が昔より上津地区の中心的な寺院であったことがうかがえる。

 当院の御本尊は、大聖不動明王であり、脇侍として、矜迦羅童子、制多迦童子が安置されている。そもそも不動明王とは、大日如来の命を受け行動する密教の仏である。その尊形は、右手に剣を、左手に羂索という縄を持ち、背には迦楼羅炎という炎をかたどった火炎光背を背負い、髪を逆立てた忿怒の形相をしている。如来の教えに背く者の悪をくじき、修行者を守るという役割を担っている。


 当院は、往古には東坊、西坊、北坊、新坊、開範坊、北寮等の坊舎を持つ七堂伽藍の大寺であり、寺領百二十石を有し、中本山の格式を持っていたが、天正伊賀の乱の時、悉く皆焼失してしまう。その後、中興第一世英尊師が再興し、現在に至っている。中興以前のことについては、天正伊賀の乱により古文書等を焼失してしまい詳しくはわからない。しかし、当院第九世宥英師によって天明三年(一七八三年)に書かれた記録には、次のように記されている。


 「神護景雲元年鹿島神社を比土に勧請に引續き爰に吉聖鎮護国家の為の神社仏閣を(鹿島の後
  八幡宮及び外五社を勧請したるものの如し)建立して、一百餘園を神明仏陀に献ず。即ち北
  に社頭を、南に仏閣を搆ふ所謂、寶珠院、東坊、西坊、北坊、新坊、開範坊、北寮等にして
  就中宝珠院を学頭と為し西坊を以て鑑室となし、各々醍峯三寶の血脈を翫び永く密家の道場
  とせり。」

                    (『寺有財産簿』明治三十六年七月 由緒 より)

この文章より、神護景雲元年(七六七年)に当院が開創されたと考えることができる。

また当院には、宗祖弘法大師にまつわる伝説が伝わっている。
  「寺伝に、僧空海の開祖にして比々岐、上津両神社の護坊なり。」
                   (『青山町史』昭和五十四年三月三十一日刊 より)

つまり当院は、弘法大師(僧空海)の開祖というものである。

 中興以前のことをうかがうことのできるものとして、寺宝の版本法華経がある。これは、伊賀市の指定文化財にもなっている南北朝時代のもので、全八巻の内、第一、三、七巻の巻末に興国三年(一三四二年 南朝年号)の奥書がある。


 創建より八百年余りの後の天正九年(一五八一年)に、天正伊賀の乱により当院は全山を灰燼に帰す。西から攻めてきた織田の軍勢に向かい打ったのは、総大将乾十朗兵衛率いる数百人にも及ぶ僧兵軍団であった。その結果、僧兵軍は織田軍に敗れ、当院の七堂伽藍は焼き討ちにあう。このとき、織田軍の総大将織田信雄は当院を本陣として構えた。田園などについては、その織田信雄により没収されてしまう。織田の軍勢と戦った僧兵達が住んでいた僧衆屋敷が、現在のウィッツ青山学園(旧上津小学校)のあるあたりに建てられていた。また、「見合谷川」「小庄谷」「十郎山」等の当院周辺の地名が、当時の戦いを今に伝えている。


 その後、中興第一世英尊師が、寛永十六年(一六三九年)に宝珠院一字を再建したが、完成には至らなかった。それより八十年余り後の、享保十三年(一七二八年)に、第三世鏡宥師が再興し、完成を見ることとなった。完成の四十年余り前、貞享元年(一六八四年)に、鏡宥師の托鉢によって鐘楼堂が再建された。この托鉢は、大和、山城、近江、三河、尾張、伊賀、紀伊の篤信者二十数万人、二十数年にわたる大規模なものであったという。


 江戸時代の初期、天和三年(一六八三年)に中興第一世英尊師の弟子、宥尊師が北山に朝日山喜福寺を開山した。それ以後この喜福寺は、当院の末寺として、長く本末関係にあった。


 このころ神社は、八幡鹿島の宮を始めそのほか小社が五社あり、合わせて七社明神と呼んでいた。それらをもって、上津卿の氏神として祀っていた。当院はそれらの神社の別当寺であった。


 天保七年(一八三六年)第十二世正学師により、寺宝の金剛界、胎蔵界大日如来が建立される。また、舎梨宝塔、極楽曼荼羅、地獄曼荼羅、大檀、脇机等の宝物を寄付される。


 その後、江戸時代末期には当院は衰退を極め、明治維新による神仏分離の時、すでに廃滅の状態であった。それを第十四世中野戒傳師が、苦労の末再興し、ついに上津村祈願所の名を以ってようやく認められ、別当職を受け継ぐこととなった。このころ、当時の住職中野戒傳師は、村の子どもたちを集め寺子屋として読み書きなどを教えていた。ある時には、十五名の男子が通っていたという。


 現在、境内の中の忠魂碑があるところは、元々当院の護摩堂があった場所である。戦没者のための忠魂碑を建立するにあたり、護摩堂の跡地を忠魂碑建立のための土地として提供したのである。その結果、大正十四年四月に忠魂碑が建立され、現在まで長く当院の境内の中にあって、戦没者の慰霊の役目を果たし続けている。


 昭和二十一年に実施された農地開放により、当院は再び衰退の道をたどる。それまでは、約七町歩の農地、宅地を持っていた。このことより当時までの繁栄をうかがうことができる。


 昭和三十年に、それまでの上津村、阿保町、種生村、矢持村が合併し青山町となったとき、その前日に各村において廃村式というものが行われた。上津村では、比々岐神社にて奉告式典が、当院にて物故功労者の慰霊祭が行われた。このことからも、当院は比々岐神社とともに上津地区住民より長く信仰されてきたことがうかがえる。


 また、昭和五十八年十二月、西岡真海師の住職の時、弘法大師千百五十年御遠忌記念事業として、大師堂(御影堂)が信徒の寄進により建立された。


 このように当院は、衰退と復興を繰り返し現在に至っている。


                   (『上津山宝珠院縁起本』平成14年1月刊 より)